なぜ56歳の歯科医師 中野浩輔は数ある職業の中から歯医者を選び、なぜ入れ歯について情熱を持って勉強し続け、そこまで入れ歯について熱く語るのか?
今まで誰にも言わなかった、いえ、誰にも言いたくなかったことをお話します。
私は小さなときから虫歯が多い子供で、虫歯治療に通い続けましたが、私の祖母も歯のことでは大変悩んでいました。
私の家は昔から共働きで、母は日曜も祝日も必ず仕事で忙しく、私の面倒はいつも祖母が見てくれていました。食事も洗濯も祖母がしてくれることが多かったです。
そう言った理由で、「おばあちゃん子」だった私は祖母の歯の治療で、私の通っているのとは別の歯科医院によくついて行ったものでした。
かなり若い時から総入れ歯になった祖母は、その歯科医院で総入れ歯を新しく作ってもらいました。
しかし総入れ歯を作ってもらったものの、なかなか合わないらしく、その日も入れ歯の調整のため歯科医院を訪れていました。
私が小学校3年生の夏休みのある暑い夏の日でした。
待合室で待っていた私の目の前に祖母と院長先生が出てきました。そこで院長先生は私の祖母に向かって言いました。
「あんたのあごは特別に出来が悪い。もううちには来んでくれー!
「見てみろ。うちはこれだけ沢山の人が待っとる。もっと暇な歯医者に行ってくれー!」
そう言われた普段は感情を余り表に出さない祖母の顔はみるみる紅潮してゆきました。
大勢の人の前で恥をかかされた祖母と私は、逃げるようにその医院を後にしました。歯医者からの帰り道、自転車を二人で押しながら、祖母の顔に大きな涙が幾つも流れているのを私は見ていながら、一言も声をかけることができませんでした。
その歯医者での屈辱的な仕打ちを、私は昨日のことのように覚えています。
その祖母との経験から私は「入れ歯の上手な歯医者」「患者様と対等の立場に立つ決して偉そうにしない歯医者」そして「優しくて腕のいい人間味のある歯医者」になろうと小さなときから心に決めていました。
私の家は共働きではありましたが、決して裕福な家庭ではなかったように思います。
そのために私は6年教育の歯学部に進学するなら、国立大学でさえ県外であれば、金銭的に無理だなとあきらめてかけていました。
しかし運よく私が高校生のときに、地元の岡山大学に歯学部が新設されることになったのです。迷わず私は岡山大学歯学部を第一志望として目指し、運良く試験も合格して岡山大学歯学部2期生として入学することになりました。
私の歯学部への入学を、誰よりも喜んでくれたのは祖母でした。
歯学部は6年制の学部ですが、6年になると患者様に実際に接する実習教育が始まります。その中で入れ歯を実際に患者様に作る実習がありました。
その患者様に私は祖母を指名しました。
歯学部の6年生の時に私は生まれて初めて入れ歯を実際に作りました。
それは私の大切な祖母の入れ歯でした。
その当時の第2補綴科(ほてつか)の教授は佐藤教授、コンパウンドという材料を使っての入れ歯の型取りは見事なもので、名人芸と呼ばれていました。その教室のN先生が私の教官となり、祖母の入れ歯作りは進んでゆきました。
コンパウンドを使って型を取り、噛みあわせを取り、試適して、完成させます。通常よりかなりの期間がかかってしましたが、N先生の助けもあって、何とか無事私の初めての入れ歯が完成しました。
綺麗に研磨を終えた入れ歯が出来上がったとき、歯学部の地下の実習室で深夜に私は「やったー!」と大きな雄たけびを上げたものです。
私が作った入れ歯を、祖母の口の中に装着する日が来ました。
まず上の入れ歯を入れてゆるくないか?落ちてこないかどうか?痛いところはないか?噛み合わせがどうか?全ての項目をゆっくりと審査します。
しかし、そこで困ったことが起きました。
祖母は「私がどこか痛い所がありますか?」という質問に、必ず「どこも痛くありません!」と笑顔で答えるのです。
そんなはずはありません!だって経験のない学生が作った最初の入れ歯ですから、至らない点は沢山あったはずです。
しかし祖母は最後まで痛いとは一度も言いませんでした。
N先生と数回の調整を終えて最後は佐藤教授に診査してもらいました。歯学部の6年生の最後には教授診という診査を必ず受ける必要があったのです。
佐藤教授は祖母に聞きました。「入れ歯の具合はいかがですか?」
祖母は満面の笑みを浮かべて言いました。「調子いいです、何でも噛めます!」
そして私の教授診はすぐに無事に終わりました。
歯学部は6年間あり、歯科医師の国家試験に合格して初めて歯科医師のライセンスが得られるのですが、卒業後の進路は様々です。大学病院に勤務するもの、大学院に進学するもの、開業医に勤務するもの、その他に分かれます。
私は今までの経験から岡山大学歯学部歯科補綴学第1講座の医局へ入局することになりました。
補綴(ホテツ)とは歯を失った所に歯の被せ物や入れ歯を入れる学問のことで、当時第1補綴科の教授は山下先生でした。第2補綴科の教授が佐藤先生でした。
卒業後この山下教室に研究生として残った私は、すぐに先輩の先生と共に入れ歯の研究に取り組みました。
その研究結果は日本補綴歯科学会で発表して、論文も学会誌に掲載されました。
その当時の岡山大学歯学部は患者様が大変多く、卒業して間もない私でも数名の患者様を担当することになりました。
ある時に、ある女性の方の総入れ歯の調整を行うことになりました。
何度も何度も調整をするのですが、なかなか患者様の痛みを取ることができません。しまいには患者様は怒ってしまって、「担当の先生を変えて下さい!」と直接言われてしまいました。
私の腕が未熟なことが原因ですが、とてもショックを受けたことを覚えています。
そして大学での補綴の勉強だけでなく、休みの日に入れ歯の講習会を受け始めました。
今でもそうですが、当時から入れ歯の大家と呼ばれる先生の多くが講習会を開催されていて、研修医でお金がなかった私は食費を切り詰めてでも、大阪や東京で開催されていた入れ歯の講習会に参加しました。
そういった苦い経験もあって、私の入れ歯の腕も徐々にですが本当に少しずつですが、上がっていったように思います。
卒業して大学の補綴科に在籍して数年経っていた私は、文部教官助手になっていました。
入れ歯の治療にも少し自信が付いていた頃でしたので、私にとって祖母の2つ目となる入れ歯を作ることになりました。最初の時と違って全ての工程はスムーズに進んで、1ヶ月で祖母の新しい入れ歯は完成しました。
祖母が2つ目の入れ歯を、喜んでくれた事は言うまでもありません。
この時も祖母は決して痛いとかの文句は、一言も私に言いませんでした。
明治生まれの祖母は、体は丈夫で大きな病気もしないまま、年を重ねてゆきましたが、90歳を過ぎたある時に、骨折したことをきっかけに急激に体調が悪くなりました。
数年間自宅で、母が介護していた祖母も、完全に寝たきりとなって、高齢者施設でお世話になることになりました。その頃になると、ほとんどこちらの問いかけには反応できなくなり、口から物を食べることすらできなくなっていました。
しかし祖母のベッドの横には必ず入れ歯の容器が2つ置かれていました。
そして、わたしが作った2つの入れ歯が、それぞれ綺麗に水を張った2つの容器にいつも必ず入れられていました。
2つの入れ歯は、ただ容器に入れられているだけで、祖母の口の中には決しって入れられることはなかったのですが、それでも寝たきりになってからの5年間、必ず祖母のベッドの横には2つの入れ歯の容器が置かれていました。
5月24日の土曜日の夜、読みたい本があった私は飲み慣れないワインをちびちび飲みながら本を読み進めました。
就寝が3時半だったでしょうか?4時過ぎのけたたましい電話に私と妻は飛び起きました。
「嫌な予感」が走りました。
「いよいよ祖母が危ない!」すぐ来てくれと母からの電話でした。
数ヶ月前から、いつ何が起ころうと対処できるように準備していたはずでしたが、土曜日の夜ということで気が緩んだのか?ふらふらの寝不足の上、顔がまだ赤かったです。
車ではなくて自転車で小雨が降る中、傘もささないで祖母の入院していた病室に向かいました。祖母の病室には両親がいましたが、母は昨夜からずっと付き添っていた様子で、父はさっき着いたようでした。
親戚が一人また一人と集まってきました。
祖母の様子は呼吸が苦しそうであるも、急にどうにかなるようには思えなかったのですが、看護婦さんの説明によると瞳孔が開き始めていて足先も黒く変色し始めているとのことでした。
両親、親戚とともに呼吸の変化をずっと見守りました。
徐々に呼吸のタイミングが遅くなり浅くなるのが私にも解りましたが、朝の7時を過ぎて、まだもう数時間は大丈夫かなと思い、あまりにTシャツ1枚では寒かったので、朝ご飯でも食べて着替えようと、私だけ一旦家に帰ることになりました。
本当に大好きだった祖母は最後まで必ず看取ろうと思っていたので、長期戦を覚悟して体力の消耗を避けたかったからです。
自転車で家に帰ってカーディガンを羽織り、パンを頬張って出かけようと思うと、前の自宅に病室にいるはずの叔父の車が止まっているのを見つけて再び「嫌な予感」がしました。
病室に帰ると既に祖母はなくなっていました。
私が帰って2、3分と経たなく息を引き取ったと聞きました。
必ず看取ろうと思っていただけに何で?と涙が出てきました。父は「最期までずっといてくれたので同じ事だ」と慰めてくれ、妻も「きっとおばあちゃんが気をつかってあなたがいない時に息を引き取ったのよ」と言ってくれました。
私はその場で涙が溢れ出るのを止めることはできませんでした。
祖母の葬儀の日、「天国に行っても美味しいものをいっぱい食べてね」と、祖母の棺に私は2つの入れ歯を収めました。
祖母が亡くなったからといって私の入れ歯に対する勉強が終わった訳ではありません。
大好きだった祖母のためにも、もっと入れ歯のことを学ばないといけない。もっと上手に入れ歯を作りたい!と私は思っていました。
そんな私はある入れ歯の講習会で「超精密入れ歯」に出会いました。
この超精密入れ歯は、それまでの入れ歯作りと根本的に違っていたところがあります。
それは全工程が大きく分けて4つのパートになること!
その4つのパートをしっかりと押さえれば、今までよりかなりレベルの高い良く噛める、適合の良い、よく話せて大きく笑うことのできる入れ歯ができるのです。
また、一度仮の入れ歯を作って、それを調整して全ての情報を新しい入れ歯に取り込むことを併用すれば、もっと素晴らしい入れ歯が完成することも私は学びました。
それまではどうしても入れ歯の樹脂の重合という操作でわずかな歪みが生じていたのが、特別なシステムを使うことでほとんど歪みなく入れ歯を作ることが可能となっていました。
この「超精密入れ歯」のことをもっと早く知っていれば祖母に3つ目の入れ歯を作ることができたのに?と私は大変後悔したものです。
そしてその「超精密入れ歯」のことを皆さんに知ってもらいたく、このホームページを作ることにしました。
あなたにとって、良い入れ歯とはなんでしょうか?「痛くなく何でも噛める」「大きなお口を開けて笑っても落ちてこない」ですか?それとも「支払う価格が安いこと!」でしょうか?
私の名前は中野 浩輔といいます。歯科医師になって既に19年が経過しました。まだまだ歯科医師としては若造ですが、入れ歯を作ることには誰にも負けない情熱を持っているつもりです。
入れ歯でお困りの方は、ぜひこの私にご相談下さい。
中野 浩輔
中野浩輔に直接届くメールアドレスです。
良い入れ歯を作ることは難しいです。なぜなら人それぞれ良い入れ歯の定義が違いますし、もちろん価値観も違うからです。しかしこの「超精密入れ歯」のシステムを使うことで、私には少しだけ入れ歯作りに明かりが見えてきたように感じています。
「入れ歯作りに命をかけています」 本音です。
それが祖母との約束でもあるからです。
一人でも多くの人に満足される良い入れ歯を作りたい。いつも私が思っていることです。
今まで私が作ってきた多くの入れ歯は出来が悪いのもあったと思います。本当に申し訳なく思っていますが、だからといって入れ歯作りへの情熱が少なくなった訳ではありません。なぜならこの私は良い入れ歯を作ることが私の使命だと思っているからです。
「中野先生はなぜ歯医者になったのですか?」
よく聞かれる質問です。私はこの質問に今では自信を持って胸を張って答えることができます。
「この仕事は私の天職だからです!」
中野浩輔に直接届くメールアドレスです。
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